<著作からの抜書き>
【特異な火災】
3月の末、京都の銀閣寺の近くにある橋本関雪記念館の茶室が焼失した。学生時代しばしば足を運んで、エネルギーをもらっていたところだけに、旧友を失ったような衝撃を受けた。春先は、いつも火災が多い。季節の変わり目ということで、自然的側面からも心理的側面からもバランスが崩れ、火災が発生しやすくなるのである。
それにしても今年の春先は、例年になく火災が多い。群馬渋川の有料老人ホームの火災、尼崎の園和と難波の2つの市場の火災、神奈川大磯の旧吉田首相邸の火災など、特異な火災が相次いだ。とくに老人福祉施設の火災では10名の尊い生命が奪われている。
ところでこれらの火災には、季節の変わり目だけでは説明のつかない力が働いている。その力は、時代の変わり目によって生みだされたといえよう。高齢化や格差化などの時代の変化の中で、社会の歪みが特異な火災となって噴出したのである。
戦後の庶民の台所を支えてきた市場や商店街が顧客を奪われて衰退の一途をたどっているという現実、生活保護を受ける要援護者が福祉の網から振り落とされて行き場を失っているという現実が、こうした火災の背後にあることを、見逃してはならない。
さて問題は、いかにしてこれらの時代の変わり目の火災を克服するか、である。私は、これらの火災を防ぐためには、時代の変化の中で社会的に培養された、制度の壁、技術の壁、支援の壁の3つの壁を克服することが欠かせない、と考えている。
制度の壁というのは、建築基準法や消防法などが、市民の安全を守るうえで十分に機能していない、という問題である。群馬の施設火災も尼崎の市場火災も、その構造や設備には法的瑕疵がなく、合法として取り扱われていた。
昨年大阪で発生した個室ビデオ店火災と同様、実態としては危険極まりない状況にあったにもかかわらず、法的には野放しにされていた。スプリンクラーなどが義務づけられておれば、惨事を防げただけに、法のあり方が厳しく問われよう。
とはいえ、法に全てを託すことはできない。法は、最低限の基準を定めているだけで、安全を百パーセント保障するものではないからである。
そこで、施設の管理者や経営者が、利用者の命を守るという視点から、法律で要求されずとも必要な防火対策を施すという、自己規律が強く求められるのである。法さえ守っておれば何をしても良いという風潮は、厳に戒めなければならないと思う。
次の技術の壁というのは、防火に必要な科学技術が、未発達である、あるいは普及していない、ということである。上述した一連の火災では、安価で有効な消火設備がない、ということがネックになっている。高度に発達した科学技術が、防火に十分に生かされていないのは、とても残念である。
この技術の壁で留意しなければならないのは、技術の不信あるいは過小評価が、防火のための技術開発に水を差していることである。福祉施設などの対策について、隣近所でバケツリレーするので、スプリンクラーがなくても大丈夫だといった、誤った意見がはびこっているのが、その一例である。
法に依存し過ぎるのが良くないように、技術に依存し過ぎるのも良くない。しかし、強大な破壊力に対しては、徒手空拳ではどうにもならないのである。科学技術やハイテクを活用して、時代の変わり目を乗り切ることが、今ほど求められている時は無い。
三番目の支援の壁というのは、こうした火災を防ぐうえで、必要な社会的な支援あるいは保護が欠落している、という問題である。火災については、失火責任あるいは管理責任が問われ、その自己責任において対策の強化をはかることが、昔から強制されてきた。
群馬の施設火災については、あまりに杜撰な防火管理ゆえに、責任追及はその施設経営者に向けられている。とはいえ、経済能力のない管理者に対応を押しつけていて、解決する話ではないのも確かである。
こうした火災では高齢者などのいわゆる「社会的弱者」が犠牲になっている現実を踏まえるならば、社会のセーフティネットとして、安全のための措置を講じることが欠かせない、のである。行政がしっかり財政的にも技術的にも支援して、悲惨な火災が発生しないように努めなければならない。
神戸新聞 針路21 より